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塚本晋也『野火』を観て思うこと

※この記事は、2年前にfilmarksに書いた映画『野火』のレビューを、塚本晋也監督作品のNetflix配信開始を記念して加筆・修正したものです。よかったら。

 

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あらすじ

第2次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島。

日本軍の敗戦が色濃くなった中、田村一等兵塚本晋也)は結核を患い、部隊を追い出されて野戦病院行きを余儀なくされる。

しかし負傷兵だらけで食料も困窮している最中、少ない食料しか持ち合わせていない田村は早々に追い出され、ふたたび戻った部隊からも入隊を拒否される。そしてはてしない原野を彷徨うことになるのだった。

空腹と孤独、そして容赦なく照りつける太陽の熱さと戦いながら、田村が見たものは・・・

(公式サイトより引用) 

 

最初はこの映画の技術面での素晴らしさにも触れようと思ったのですが、そちらに関してはシネマトゥデイの連載特集記事『野火への道 -塚本晋也の頭の中-』に詳しいことがわかったため、ここでは書き記しません。

僕がここでお話したいのは、この作品が訴える2つの明快なメッセージについてです。そのメッセージとは、①:戦争がとにもかくにも社会を『不条理』そして『無価値』なものに変えてしまうということ。②:①の2点のみによって、人間も変わってしまうということ。塚本晋也版『野火』はこの2点を凄まじく簡潔に、それでいながら精緻に描いています。

 

僕は、言語によって体系化された単一のルールが『条理』であり、多様な考えを持つ1人1人の人生を『価値あるもの』であると思っています。しかし『野火』に登場する数多の命は、相手の銃撃に立ち向かう術もなく、もちろん命乞いも通じず、ほとんど無抵抗の状態で亡くなっていきます。戦争に条理は存在せず、それまであったはずの価値を無に帰す力もある。この映画は全編に渡って、そうした社会の『不条理化』と『無価値化』を訴えてきます。

 

主人公の田村一等兵が殴り倒される冒頭。ちょっとした理由から、全くもって徒労にしか過ぎない往復作業を強いられる序盤。パロンポンという土地に向かえば助かると言われたものの、なぜそこに行けば助かるのかの根拠付けも為されぬまま、ひたすら歩を進める中盤。どんな人物なのか、どの様な思想背景で争っているのかも伺うことができない敵軍に「交戦」する間もなく命が肉塊になる様を活写する後半のハイライト。この作品には常に『一方的に殺す/殺される』『一方的に命じる/命じられる』という非対称な構図がベッタリと張り付いています。善意も悪意もなく、もっと言えば理由すらないこれらの作業の繰り返しによって、この作品が届けようとしている『不条理』と『無価値』というメッセージが克明に浮かび上がります。

 

そして、この2点によって主人公は決定的に変わります。その変化自体も不条理で無価値であるということに気付かぬまま、無自覚に変わってしまいます。それが象徴的に表れるのは、やはり人肉屠食をめぐるシーンと、ラストの帰国後の場面でしょう。口の中の赤いきらめきや「猿の肉」を口にして以降、またその言葉の意味するところが明らかになってからの主人公の「肉」をめぐる所作、祈りとも鉈を振り上げる様子ともとれる動きを繰り返す様は、戦争という『不条理』で『無価値』な出来事の前に、1人の人間が完全に敗北したことを示しています。そしてその傷跡は消えません。本人がその傷跡を自覚しているか否かに関わらず、それは消えない。特に最後の帰国後の場面は、その動きの意図しているところが分からなかったが故に観ていて辛かった。なぜならその動きこそが、主人公が『不条理』や『無価値』という「わけのわからないもの」に飲み込まれてしまった事を示していたから。

 

 翻って現在の世の中を見渡すと、どことなく『条理』や『価値』が蔑ろにされているように感じます。ポスト・トゥルースや「安全ではあるが安心ではない」の例を挙げるまでもなく、論理やデータを通過していない「なんとなく」が優先され、その「なんとなく」のみに基づいて新たな条理を形成しようとしている感すらあります。また、大学の文系学部廃止騒動に見られるように、社会の発展に直接寄与しない(と言われているらしい)物事への冷遇も目立ちます。ぼんやりとした感想になってしまってたいへん恐縮ですが、もし今の世の中に生きづらさを感じている人がいるならそれは、上に挙げた条理のグラつきと価値の単一化による部分があるのかもしれないと感じます。


あらゆるエンターテインメントは、この国の多くのお偉いさんからしてみれば無駄でしょう。なぜなら娯楽は、条理がしっかりと機能し、かつ様々な考えが交錯する中で生み出され、受容されるものだからです。エンターテイメントがエンターテイメントとして存在できること、受け手が受け手として存在できることは、『野火』が逆説的にその尊さを説いてきた『条理』と『価値』の賜物に他ならないのです。そうした社会であればこそ、戦争というセンシティブにならざるを得ないこの作品も『対岸の火事』として消費することが可能なのだと思います。

僕は『野火』が、『対岸の火事』として消費され続ける事を望みます。それが、この社会が平和であることの証左になるから。そしてできれば、なるべく多くの人の目にこの作品が届いてほしいし広まってほしい。クーラーの効いた自室や映画館で椅子に腰掛けながら観賞し、感想を言ったり書いたり点数をつけたりする営みがなくなってほしくないし、絶やしてはならないと思います。条理や多元的な価値を守り続けていくために。

『不条理』や『無価値』なんてものに、この作品が、社会が、どうか飲み込まれませんように。

 


野火 -特報- Fires on the plain News flash